国立代々木競技場は神明造り!?小屋組みのすごさを遺跡から再発見!
小屋組(屋根の構造)の歴史を遺跡や遺物(家型埴輪など)、復元した建物などを見ながらを調べていてる中で、現在につながる建物の構造が見えたりするなど自分の中で新しい発見がありました。
それと同時に疑問も新たに生まれたので現時点でわかったこと疑問点などを記しておきたいと思います。
まずは竪穴式住居から
一般に竪穴式住居は地面に埋込んだ垂木を直に合掌で組み棟木を上に乗せ屋根を形成している。柱と梁はどちらかというと垂木(登り梁?)を支える役割の方が強い。※叉首(サス)構造の原型?
特徴としては
■垂木が地上まで接しているため、建物の荷重の一部はこの垂木によって支えられている。そのため風圧や地震のような横力に対して非常に有効な構造となっている。
■棟木に関しても特徴があり
一般に木造小屋組みの場合は垂木は棟木の上に乗っかっているが、竪穴式の場合は垂木を合掌に組んでその上に棟木を乗せている。
(棟木の有無に関しては疑問点を下に記しておきます)
■竪穴式は柱穴はもちろんカマドや集石、貯蔵用の穴、土器の破片まで遺構・遺物として残っていたりするので古代の生活様式を知る上での材料が多い
などこれだけでもワクワクしてしまいます^^
原初の竪穴式住居は木材加工があまりできないことや倒木を利用したであろうことより頂部で木を組むことや直線で合わせることは難しかったと思われる。
さらに真ん中に炉があるので上部は開けっぴろげで雨よけのためには傘や帽子のように茅を編んだものを乗せていただけ(またはタープの様に上からかけるなど)で棟木が無かったかもしれない。
下図はインディアンのテントの例で棟木はなく頂部は開閉式となっている。
下図は吉野ヶ里遺跡の竪穴式住居の復元建物で、屋根頂部には別ものが乗っかっている?
追記2019.05.22:19世紀末ごろまでの北東アジア、北アメリカの冬期にすまう竪穴式住居の歴史を調べる中で、屋根は土で覆われ、頂部は天窓として用いられかつ出入り口であったとされる記述を見つけたのでまたの機会に続きを書こうと思います。「環海異聞」「北蝦夷図説」
そのブログ記事はこちらへ↓
掘立柱建物の出現
稲作が盛んになると穀物などを大量に保存するための小屋が必要になるため高床式倉庫などが出来てくる。(稲作自体は縄文時代からあった)
また水利権など村同士の争いごとが起き、軍事的な面で物見台としての掘立柱建物などもできてくる。
掘立柱建物(高床式倉庫)を作るには床、壁、屋根をどのように構成するのか構造的な変化が必要となる。
高床式倉庫は横材を井籠(せいろう)組に積み上げて壁面を作る校倉風の建築様式などもある。
いずれにせよ穀物の保存のため日差しや雨、風をしのぐための小屋組が必要になる。
独立棟持柱建物の存在
独立棟持柱建物は小屋組に必要な棟木を独立した柱により支え壁(又は上家の柱と梁)に負担をかけないようにするという発想である。
校倉風の建物に屋根をかけるときに考えだしたものかもしれない。
やがて独立棟持柱建物は神明造りなど祖霊祭祀のための象徴的な建築様式となる。
この独立棟持柱建物ですが、2つの掘立柱で棟を支え真中に柱のない(少ない)大きな空間をつくるという構造でもあり、この発想をさらに進めれいれば吊り構造の原型となり近代によみがえって国立代々木競技場が生まれた…といった流れが出来たかもしれません。
丹下健三さんは日本建築に造詣が深い方だったので神明造りを意識していたといってもあながち嘘ではないかもしれませんね。
建築の発想ってどこかでつながっているようで面白いですね。
埴輪(はにわ)からの独立柱の変化
棟木を支える独立した棟持柱は他の柱と同じ列に並ぶようになる。
棟持柱は妻側の梁間方向の間に入り込むことで、梁の上下に分かれて上の方は棟束、下の方は柱となる。
下の方の柱は梁せいを大きくすることではずすことやずらすことができる。
上の方の棟束は横方向の力により転倒してしまうため、補強しなければならなかった。
棟束の転倒を防止するには
棟木と桁を垂木で接合して棟束の転倒防止するのでは桁と垂木の接合部に力が生じてうまくとめることはできない。
このため柱の上に小屋梁を乗せ、小屋梁と棟束を斜め材で接合する。このことで力は梁への引張力として流していく「叉首(さす)」が生まれた。
小屋梁を柱の上に乗せる構造は「折置組(おりおきぐみ)」と呼ばれるもので、もともとは叉首により棟束の梁間方向への転倒防止を重視した構造なのかもしれない(桁行方向の転倒防止は桁と棟木で対応)
また、叉首を用いた構造は棟束を必要としない三角トラスのため合掌造りの原型となったのかもしれない。
※追記2019.05.22: 叉首(サス)を用いた合掌造りへの発展過程に小屋梁の上にオダチと呼ばれる棟束をたてて屋根を支えるオダチ組という構法もある。
竪穴式住居をサス・オダチ組としてとらえるのであれば、独立棟持柱建物からの変遷ではなく竪穴式住居の骨組みから直接的に発展を遂げたのかもしれない。
他の方法として、小屋梁の上に乗せてある棟束の左右に小屋束をたてその小屋束と棟束を貫?などでつなげ梁間方向への補強をするなどの和小屋もある。
桁行方向には小屋束の上に(棟木と同じ方向に)母屋を流し、桁、母屋、棟木により力を伝えるので前後左右の横力にも対応できる面的な構造ともいえる。
上図の洋小屋であるが家型埴輪の妻側の線刻からその発想のもととなる表現がみられる。
上図は家型埴輪の妻側面であるが、棟束から屋根側にのびた斜めの線刻がみられる。これは垂木を受けるための斗束(ますづか)の表現ともとれるが、この発想が発展して、叉首(または垂木?)、棟束、小屋梁とこの斜めの部材があればいれば洋小屋のトラス構造を日本独自に発展させることができたかもしれない。
どっちの工法がいいの?
柱の上に梁を乗せるのか桁を乗せるのかで京呂組(きょうろぐみ)、折置組と別れているがどちらが優れているのかは正直わからないが、(現代の作り方を比べると)折置組の方が柱と桁、小屋梁の接合部の木材加工が難しそうである。
ちなみに伊勢神宮の内宮は京呂組、外宮は折置組で、どちらも叉首あり棟束は御行束と呼ばれている。
まとめ
ザックリと小屋組の歴史的な流れを途中まで思うがままに書きなぐってきましたが、ツタ類や木の皮、縄で縛っていた時代から考えると接合部(仕口)の木材の加工技術の発達とともに建築の様式がずいぶん変わっていったんだなと痛感するとともに小屋組を考えた人間の知恵のすごさを感じている今日この頃です。
追記:独立棟持柱建物ひとつとっても神明造りまでつながる建築様式となるなどこのテーマは意外と奥が深いので、また気がむいたら続きを書くかもしれないです…
ちなみに神明造の模型がアマゾンで売ってたので買おうかと思います。
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