鳥居から考えてみた独立棟持柱建物の空間構成って?
鳥居をくぐり神社に参拝する時、神聖な領域にこれから入るという結界のような領域性を感じます。
日本人としてはあたり前のことかもしれませんが、よくよく考えるとこの鳥居というものは手前と奥の空間を基底している建築要素ではないのか、それも古代からある空間の概念をあらわしているのではないのかと思い、いろいろと調べていま考えていることを書き記しておきたいと思います。
古事記にみられる原初の場所
「古事記」は稗田阿礼が天武天皇の命で「 誦習 (しょうしゅう)」していた天皇の系譜と古い伝承を太安万侶が書き記し編集したもの。712年に元明天皇に献上された。日本の成り立ちや古代の人たちの感覚を知る上で重要な書物であることからここでは古事記を取上げ原初の場所とは何なのか見て行きたいと思います。
古事記によれば、国産み、神産みは伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神が天浮橋(あめのうきはし)にたち、別天津神(ことあまつかみ)たちからわたされた天沼矛(あめのぬぼこ)で渾沌とした大地をかき混ぜるところから始まります。矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)をつくり、二柱の神は天浮橋から地上に降ります。そして淤能碁呂島に「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの)」を建てます。
天の御柱(みはしら)と八尋殿(やひろどの)
なぜ天の御柱を立てるのかずっと疑問に思っていましたが、この柱は天と地の間をつなぐものであり、上と下という方向性を表すものではないのかと考えられます。
そして八尋殿はおそらく御柱のまわりに八方に広がる御柱の周りの場所性を基底するものではないのかと考えています。※八尋殿とは広大な殿舎のことですが、おとな8人が手をひろげた範囲をあらわす場所だと考えています。
天地と八方向へのひろがり
天の御柱による天と地の上下の方向性を基底した後に、天の御柱を中心にイザナギが左回りイザナミが右回りして出会ったところで性交するので、しっかりとした中心がありそこから八方へとひろがっているところにしっかりとした場所をつくったのだと思います。このことから始まった二柱の神は、安心したのでしょうかたくさんの島を産み、神を産みはじめます。
大木は神が宿る
古代からの原始信仰(自然物崇拝)
神様の数え方は一柱・二柱というように柱(はしら)と数えます。そもそも柱はなぜ神と見立てられたのかですが、日本には原始信仰である自然物崇拝があったと考えられています。古来より神は自然物に宿ると考えられていたので、その中でも特に「大木は神が宿るもの」として重要視されてきました。神社にある大木が御神木と呼ばれるものもこうした考えからでしょう。大木を掘立柱として使っていた古代では柱を神と見立てて一柱・二柱として数えたとしても不思議ではありません。
柱は地面から天に向かって垂直に立っている姿から、「神が降りて来る為の通り道」としての役割を果たしていたと考えられます。
三輪山を神体として信仰の対象とする
自然物崇拝といえば三輪山があります。大物主大神を祀る大神神社(奈良県桜井市)が三輪山の西側のふもとにあるのですが、ここは三輪山自体を神体山として扱っているため、本殿がない形態となっています。自然そのものを崇拝するという特徴を持つ古神道の流れに大神神社が属しているとすれば、かなり古い時代から存在していたのでしょう。
二柱(ふたはしら)により生まれる間(ま)の概念
手前と奥に境界をつくる
鳥居の話しにもどります。鳥居を構成する二本の柱は神とたとえるのであれば、イザナギとイザナミでしょうか、この二柱の男女の神により左右の場所性が基底されます。
神社に向かって柱の左側が「本柱」と呼ばれ少し太いそうです。この本柱を男柱と呼んで、向かって右側は女柱と呼ばれています。
その間にはさまれた場所は一本の柱により基底された場所よりも(ひろがりをおさえ込むので)強い場所性を生み出しています。さらにそこをくぐることによりその手前と奥という境界性をも生み出しています。
男と女の間に子供が生まれるといった人間のいとなみにも似た自然な場所性です。この間に挟まれた場所は鳥居の構成要素(注連縄や笠木など)により前後という方向性も与えられ、単なる位置を指し示す場所から空間(間)へと発展する前身であると考えられます。
鳥居とオダチ組の構成要素の類似性
鳥居の起源は諸説あります。下図の鳥居は二本の柱の間に注連縄をのせた縄鳥居(なわとりい)と呼ばれるもので古いタイプの鳥居です。
また、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」(鶏)にちなみ、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説もあります。
下図は佐賀県神埼市の託田西分貝塚遺跡(たくたにしぶんかいづかいせき)の出土品に基づいて復元した鳥形を軒飾りとした鳥の止まり木としての鳥居です。
小屋組で似たような構成方法として、柱の上に棟木を載せその棟木に垂木を架ける「オダチ組」というものがあります。
このオダチ組の柱と棟木の構造は門型であり、2本の柱の上に笠木(かさぎ)をのせる鳥居の構造と考えかたは似ています。
2本の柱の間に木をのせる門型構造が、一方は結界や門としての役割のある鳥居となり、また一方はオダチ組による小屋組へと発展したと考えられます。
独立棟持柱は鳥居からの発想?
独立棟持柱建物の左右にある棟木を支えるための独立した掘立柱は鳥居の門型構造からの発展したと考えることが自然のような気がします。独立棟持柱を2柱の神にたとえると、男と女の間に子供が生まれるといった人間のいとなみにも似た自然な場所がもつ力のようなものを感じます。
御柱祭の4本の柱で四隅をきめる
御柱祭(おんばしらさい,みはしらまつり)は、諏訪大社における最大の行事で、山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮に各4本)切り出し、4箇所の各宮まで引っぱってゆき社殿の四方に建てて神木とする行事です。なぜ4本の柱をたてるのか諸説あります。
四隅をきめるということは中央へ人間の意識を向けることでもあり、空間的なまとまりを中央につくるという何かしらの意図があったと考えられます。
※諏訪大社で祀られている神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は古事記の国譲りの段において、大国主神の御子神として登場する神です。平安時代以前のかなり古くからあったと考えられています。
※ 洩矢神(もりやのかみ)の守矢一族と建御名方(たけみなかた)のはなしが室町時代に書かれた諏方大明神画詞という古文書に書かれていたり 、諏訪地方には縄文時代の遺跡がたくさんあります(縄文のビーナスなど)。
上下左右前後が基底された空間
棟木を支える2本の掘立柱(鳥居の門型構造)の間に、さらに4本の柱をたてることにより基底された場所はより確かな空間的まとまりを中央につくることになります。
この空間は神明造りなど祖霊祭祀のための象徴的な建築様式として、とても神格化された空間となることでしょう。
※伊勢神宮の社殿の中央の床下には心の御柱(しんのみはしら) という掘立柱も立っている。
鳥居の構成や古事記などを手がかりに空間の概念的なことを書き綴ってみましたが構造上必要のない形式化された建築要素などもあり、なかなか時代をおって説明するのは難しいと思いました。
日本の原初の場所は大木(天の御柱)に垂木?をかけたところから始まり、二柱の神による鳥居の門型構造へと発展し空間として認識できるようになり、神明造という象徴的な建築様式を作ったといったといった流れではないかもしれませんがいまのところはこのような流れで頭の中を整理している今日この頃です。
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